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東日本大震災から8年たった今とこれから

 

こんにちは。

仙台を拠点に活動している

「稼げない起業家専門」ネット集客コンサルタントの村上昭夫です。

 

東北人である私にとって、忘れてはいけない出来事があります。

それは、「東日本大震災」です。

あの震災から8年。

様々な思いがよみがえります。

 

今回は、東日本大震災から8年たった今とこれからについて、私の思うところを書いてみます。

 

東日本大震災から8年

2011年3月11日14時46分 。

 

あの忌まわしい悪夢が起きました。

 

マグニチュード9.0という、経験したことのない巨大地震が
東日本の沿岸部を襲いました。

 

巨大地震だけなら
まだよかったのかもしれませんが、
それだけでは収まらず、

 

あの、忌まわしい悪夢が
起きてしまったのです。

 

ある人は、家を流され、
ある人は、親を亡くし、
ある人は、子供や孫を亡くし、
ある人は、親戚を亡くし、
ある人は、友人を亡くし、
ある人は、恋人を亡くし…

 

今まで、
そこにいるのが当たり前と思っていた、
変わらない毎日がつまらないと
思っていた、

 

そんな、たくさんの当たり前を、
一瞬にしてなくしてしまった悪夢が
2011年3月11日、東日本を襲ったのです。

 

あれから、8年。

 

8年もたったのか?
8年しかたっていないのか?
いつも議論になることです。

 

私は、もう8年かという感覚です。
やはり、あの日から時間の流れが
止まっているようです。

 

被災地を訪れるたびに、
街並みは少しは整備されてきては
いますが、まだまだ当時の爪痕が
大きく残っています。

 

それは、未だに5万人以上の
避難生活を送っている人たちが
いるという事実から、

まだまだ復興ははじまっていないのでは
ないかとさえ思ってしまいます。

 

いたちごっことしか思えない
防潮堤をはじめ、どこにお金を使っているのか
分からないことも多いのです。

 

あれだけ、たくさんの寄付や義援金などを
いただいているにも関わらず、
なぜ、5万人以上のひとたちが
避難生活をしなければならないのか。

 

とても胸が苦しくなります。

 

とはいえ、

私自身何ができるわけでもなく、
震災発生当時にボランティアを
したくらいでしかありません。

 

当時は、おやじバンドを
近所の人たちと組んでいたので、
仙台、塩釜、松島などの被災地に
赴き、元気になってもらおうと
坂本九さんの「上を向いて歩こう」などを
演奏しました。

 

被災地に行って元気づける。
同じ宮城の中で、何を偉そうにという
思いが襲いましたが、
それでも、仲間たちと、自分たちができるのは
音楽で元気になってもらうことだ!
と信じて被災地めぐりをしたものです。

 

それ以来、
特に目立ったことはできていません。
この3.11が来るたび、
いつも胸が締め付けられます。

 

何もできない自分に対して。

 

東日本大震災から8年たった今とこれから

そんな中、
私の実家がある、宮城県気仙沼市では、
奇跡の高校として知られる
「気仙沼向洋高校」が震災遺構として
昨日、3/10から
一般公開されることになりました。

 

これは行かなければならない、
地元の悲惨さをもう一度
目に焼き付けなければいけないと
思ったのです。

 

日常の中で、震災のことが
風化されていく中で、
生まれ育った故郷の悲惨さを
この目に焼き付けていつまでも
忘れないようにすることこそが、
今できることだと思ったからです。

 

幸いにも、
子供たちも行きたいと言ってくれて、
東京からわざわざそのためだけに
来てくれました。

 

子供たちにとっても、
忘れられない、忘れてはいけないことと
ずっと、頭の中にあったのでしょう。

 

気仙沼向洋高校のことは、
テレビやラジオなどで
ニュースや特集も組まれていたので、
ご存じの方も
いらっしゃるかもしれませんね。

 

この気仙沼向洋高校は、当時170人近くいた、
生徒や先生たちが、
全員無事だった奇跡の学校でも
知られているのです。

 

学校の被害は甚大なものでしたが、
命は全員助かったのです。

 

まさに奇跡としか言いようが
ありません。

 

校舎の中や外は、当時の被害そのままで
保存されていました。

 

いつも、遠くからは見ていましたが、
実際中に入って見るのは初めてでした。

 

あまりの酷さに声を失ってしまいました。
なぜ、車が3階にあるのか?
なぜ、水産加工センターと激突したのか?
津波で流された水産加工センターが
向洋高校と激突して、そこの壁が
深くえぐられていました。

 

そんなありえないことさえも
津波の力にはかなわないのです。

 

気仙沼向洋高校を震災遺構にすることには
当然、賛成者、反対者で議論をかわされた
ことです。

 

ですが、結果的には、震災遺構として
一般に公開するとしたのです。

 

見るのがつらい、なくしてほしいという
声とともに、当時の様子をそのままの姿で
公開すべきだという声も多かったのです。

 

そして、一般公開が実現できた決め手が、
死者ゼロということなのだと思います。

 

170人もの人たちがいたにも関わらず、
全員が無事だったのです。

 

これは、本当に奇跡なのです。

 

同じ宮城県石巻市にある大川小学校という
学校では、教員たちの不手際から
多数の犠牲者を出したと裁判が続いていたのです。

 

他の学校でも
少なからず犠牲者がいたと聞きます。

 

しかも、海からわずか数百mの位置に
立っているにも関わらずなのです。

 

このことで、私は改めて思ったのです。

 

つまり、「使命」のことです。

 

使命は、人だけでなく、
人以外にもあるのだと思ったのです。

 

気仙沼向洋高校は、
まさしく、後世に津波の被害を伝える
「使命」を担ったのだと。

 

我々起業家も「使命」を持って
活動しているはずです。

 

これは偶然ではなく、
天から与えられたものなのだと思います。

 

それほど、偶然では片付けられない
何かを感じるのです。

 

今年2019年に震災遺構として一般公開されたことと
私が、気仙沼向洋高校に公開初日に行ったのは
偶然ではないはずです。

 

そう思えてならないのです。

 

今年じゃなく、来年とか去年に
一般公開されていたら
もしかしたら、情報を聞き逃していたかも
しれないからです。

 

あるいは、あとでいいやって
思っていたかもしれません。

 

私が起業家になって、
使命を意識するようになって、
使命に導かれて、
気仙沼向洋高校に
導かれたとしか思えないくらいです。

 

この先、どういう関わりが
できるのか分かりませんが、
私は、仙台を拠点にしていますので、
東北の人たちを幸せにしたいと
強く思いました。

 

何ができるのか
どうしたいのか
まだまだこれからですが、
私ができることで
1人でも多くの人が幸せになってくれたら
これほど嬉しいことはありません。

 

今回は、
私が書いておきたいことについて
だらだらと書いてしまいました。

 

でも、なにか引き合うとか引き寄せるという
ことは、スピリチュアルなことでも何でもなく
普通にあることなのだと思います。

 

それに気づけるのかどうかだけですから。

 

今回、ご紹介した気仙沼向洋高校に
機会があれば、ぜひ行ってみてほしいです。

 

そして、いつまでも震災のことを忘れないでください。
大雨や台風などの被害もここ数年増えています。

 

他人事ではなく、
いつどこで、どういうタイミングで
災害が起こるか分かりません。

 

自分のところは大丈夫という意識は
危険です。

 

地震はどこでも発生します。

 

ぜひ、日頃の備えと
危ないと思ったら、避難するという意識を
持つようにしてくださいね。

 

それでは、今回はここまでです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この記事を書いた人

株式会社ビハインド・ウィン 村上昭夫Web集客コンサル、オンラインサロンプロデューサー
仙台を拠点に活動している、
株式会社ビハインド・ウィン
代表の村上昭夫です。
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